GOBI

カワセミの指輪

 真夏の青空に映える白いシーツが南からの心地よい風に乗り波打ちはためく。今日は絶好の洗濯日和。は仕事の合間、二等卒と一緒に泡だらけになりながら日課である洗濯をしていた。白いシャツに仕事用のエプロン、色移りしないようお気に入りの青いスカートを丁寧に洗うと、皴が付かないように何度か強く振って物干しロープへとかける。
 見上げると白一色の中にぽっかりと穴が開いたかのような、空のように青いスカートが気持ちよさそうに揺れていた。
 は一息ついてうんと背伸びをすると、エプロンの右ポケットを漁りチェーンが通された指輪を取り出した。
「これ、直せるかなあ……」
 チェーンは劣化からなのか千切れており、本来の役割を果たせなくなっていた。
 この時代に来てから肌身離さず身に付けていた御守りのような指輪。亡くなった祖母から貰ったもので、シンプルな台座に小さいが綺麗な淡い色の翡翠の石がはめられていた。祖母が結婚する際、祖父から贈られたものらしく、小さい頃はよくねだって見せてもらっては「大切な人が出来たらはめてもらいなさい」と言われていた。
「彼は…………してくれないだろうな……」
 この時代指輪などの宝飾品を身に着ける習慣はまだ一般的では無く、一部の裕福層でない限り誰かに贈ることも無かった。そのため意味を知らないであろう彼女の恋人――岡田一等卒が自分に指輪をはめてくれるなど、夢のまた夢。
 もし知っていたとしてもなんだか想像がつかないと内心思いつつ、壊れたチェーンを外し自ら薬指にはめて太陽に掲げ眺めた。
 翡翠の淡い緑がきらりと光り、太陽の光に優しく溶け込む。

 時間も忘れぼんやりと指輪を眺めていると、後ろから大声で自分の名前を呼ばれた。現実に引き戻されたはハッと声のする方へと振り返る。
ちゃん! 昼食、もう作り始めているぞ!」
 それは一緒に炊事場で働く一等卒で、はもう片方のポケットから時計を取出し確認する。短針はもうすぐ十一時を指そうとしていた。
「すぐに行きます!」
 慌てて指輪を外しポケットにしまうと、本業へと戻るため一等卒の後を追い、職場である炊事場へと向かった。


*  *  *


「無い! ちゃんとポケットに入れたはずなのに!」
 夜、仕事を終え風呂を済ませたは自室に戻ると、今日着用した服を洗濯するために、椅子の背もたれにかけていたエプロンのポケットに手を入れた。左ポケットからは時計、しかし右ポケットを漁っても、出てきたのは千切れたチェーンだけ。ポケットの底を摘んでひっくり返してみるが、指輪の姿は出てこなかった。
 確かにポケットに入れた。穴も開いていない。今日一日エプロンは外していないし、もし誰かに手を入れられたのなら絶対に気が付く。
「もしかしてあの時……」
 迂闊だった。大切にしていたものをあのような場で取出し身に着けるべきではなかった。
 部屋のランタン片手に慌てて洗濯場へと向かう。兵舎から炊事場へと続く渡り廊下を進みそのまま洗濯場に出るが、手持ちのランタンの灯りでは辺りはよく見えず、時折顔をのぞかせる月の光を頼りに探そうとするが無理があった。
 あの後誰かが拾ってくれているだろうか。小さいなりにも宝石である。もしかすると盗まれてしまっているかもしれない。
 自らの軽率な行動を恨むと共に、祖母から貰った大切な指輪を無くしてしまったことへの申し訳なさと後悔と悲しみがを襲う。
 もしかすると……そう思い一度炊事場へと向かう。真っ暗な中ランタンの明かりを頼りに戸棚の間、調理台の下、鍋の中まで厨房の中をくまなく探す。気が付けば既に消灯の時間をとうに過ぎていた。

 そんなを見つけたのは消灯後、不寝番のため兵舎内を回っていた月島だった。
「流石にこの時間まで起きて居られると他の兵達に示しがつかん」
 声をかけてもからの返事は返ってこない。ガタガタと乱雑に鍋を戸棚から出してはランタンを片手に中を覗き込み、小さくため息を吐いては鍋を片付ける。仕方なく黙って見ていた月島だったが、再び同じ鍋に手をかけたのを見て、思わずの腕を掴んで謎の行為を止めた。
「月、島さん……」
持っていたランタンでの顔を照らすと、目を真っ赤にした顔が浮かび上がり、月島は思わず後退る。
、これ以上は許可出来ない。明日にしろ」
 何か言いたそうにしていたが気付かぬフリをして、無理やり腕をつかんで立ち上がらせると、引きずられるようにヨタヨタと歩く彼女を自室へと連れて行き強引に押し込んだ。
 の様子からすると何か無くしたのだろう。朝起きたら岡田に伝えてやるか。
 残念なことに不寝番は始まったばかり。ひとまず今夜の面倒事を片付けた月島は、一つ大きな欠伸をして内務班のある二階へと向かった。


*  *  *


 翌朝も眩暈を覚えるほどの晴天で、いつもであれば天気に負けないくらい元気な声と笑顔で皆を迎えるが、肩をがくりと落とし死んだ魚のような目で炊事場の奥に立っていた。明らかな落ち込み様に、朝食を受け取りに来た男達はこぞって声をかけるも、返ってくる声は小さく聞き取れない。
「後ろが詰まってんぞ」
 ゴンッという鈍い音と、めげずにへ声をかけていた兵の悲鳴が上がる。
「……ってえな! 何すっ……」
「誰に対してそんな口を利いてるんだ」
 頬に特徴的な傷のある顔に、二等卒は思わず怯む。
「野間……古兵殿っ!」
「いい度胸してるな」
 野間は表情を変えずに怯える二等卒を見下ろすと、遅れてやって来た岡田に目配せをする。岡田も厨房の奥の存在に気が付き、黙って様子を見ていた炊事掛に断り炊事場の中へと入った。

、どうした?」
「……岡田さん」
 は伏せていた顔を上げ、今にも泣きだしそうに顔を歪ませ岡田を見返す。普段滅多に見る事のない表情に、岡田は一瞬ドキリと胸が高鳴るもなんとか抑え、「朝からずっとこんな調子なんだ」と、の様子に困っていた炊事掛から、とりあえず外へと連れて行くように促される。
 炊事場の外にある長椅子に腰をかけると、はぽつりぽつりと話し始めた。
「大事にしていた翡翠の指輪を落としてしまったみたいなんです。さっきも調理の合間に探してみたんですが見当たらなくて……誰か見つけて……でも……」
「いつも身に着けていた緑色の石が付いた指輪か……」
 胸のあたりで揺れていた指輪はの白い肌に良く似合っており、そう伝えると嬉しそうに笑っていたのを思い出す。
 元々一つの大きい翡翠だったが二つに割れてしまい、祖父が祖母へ贈る際一つは指輪に、もう一つはブローチにして、指輪の方を孫であるが相続したと聞いていた。小さい頃からずっとこの指輪が大好きで、祖母が留守の時にこっそりと部屋に忍び込んでは身に着け、よく怒られていた……そう笑顔を見せて笑っていたの顔は、今は陰りほろほろと静かに涙を零し濡れている。
 親指で零れる涙を拭い、そっと頭を抱き寄せれば、の口からは再び自らを責める言葉が溢れ出る。
「俺も探すから、だからもう泣くな、な?」
 伏せるの顔を覗き込み、俺に任せとけと顔を近づける。

――――ガツン

「ンンっ、岡田一等卒、今は朝だしここは外だ」
 大きな業務用のしゃもじが岡田の頭に直撃すると、咳払いをしながら炊事掛はそのしゃもじを器用にさばき二人の間を割る。
「新兵も見ているしな」
 二人は思わず体を離し後ろを振り返ると、恥ずかしそうに頬を染め、しかし興味深そうに窓から覗く新兵達と、鬼のような形相の野間の顔があった。


*  *  *


 この日一番日が高く昇った頃、今日も風に吹かれて踊る洗濯物を横目に、数人の大きな男達が背を丸くして地面に這いつくばる。
「ちょっと岡田さん、これ月島軍曹殿にバレたらまずいって」
「なんで俺達まで……」
 顔を上げ次々と溢れる不満に、黙々と草をかき分けていた岡田も視線を向ける。
「三島、お前だっての悲しそうな顔見たくないだろ? 二階堂兄弟、お前らこの前煙草分けてやっただろ。文句言わずに手を動かせ」
「そうだぞ、口じゃなくて手を動かせ、手を」
「野間ぁ」
 一人木陰で涼む野間に全員の視線が突き刺さるも、興味ありませんといったような表情で野間はまったく別の方を見る。
「お前には端から期待してねえよ」
 岡田は再び地面に視線を移し、くまなく草をかき分ける。聞いた場所は確かにここだった。もしかすると、本当に誰かが見つけて持って行ってしまっているかもしれない。
「盗まれる前に見つけないと……」
「岡田さん……」
「踏んづけたりでもしたら簡単に壊れるだろうし……」
「おっ、岡田さんっ」
「じゃないとが……」
がどうした」
が悲し……む…………」
 視界に突如現れたしっかりと磨かれた短靴。そこから視線をゆっくりと上に移すと、鬼のような形相の月島軍曹が立っていた。自分よりも小さな月島が今はとてつもなく大きく見える。
 慌てて立ち上がると、三島や野間、二階堂兄弟は既に直立不動で並んでいた。その前には同じように、こめかみに筋を浮かべた玉井伍長の姿。
「内務班の業務を放っておいて、中庭でのんびりさぼりか」
「はっ、探し物を致しておりましたっ」
「そうか……そうだ伝えるのを忘れていた」
 ブツブツと言う月島に「どうかされましたか?」と岡田が声をかけると、「その場で腕立て用意!」と月島の大きな言葉に整列していた面々は反射的に反応する。全員がその場に這いつくばり、地面に手を着く。
「腕立て百回……始めっ!」
 始めの合図にいーちっ、にーいっとゆっくり数えられる。大粒の汗がぼたりぼたりと溢れ落ち、先ほどまで雲で陰っていた太陽も、彼らを苦しめるかのように顔を覗かせる。
 五十を過ぎた頃、岡田は目の先で何かが光ったのを見逃さなかった。しかしその横には月島。月島が動いた瞬間、岡田は思わず月島の足に飛びついた。
「岡田……」
 そっと手を開くと岡田の手の中には、間一髪で助かった緑色の石がはめられた指輪の姿。驚いた月島も片足を上げたまま、その場で硬直していた。
「ありました、指輪!」
「そうか……よかったな。では全員一から腕立てやり直しだ」
「「「岡田さんっ!」」」
 次々と怒りの声が湧きあがる。皆の怒りの矛先である当の本人はにこにこしながら、大事そうに指輪をシワシワのハンカチで包むと、それをポケットにしまい再び腕立ての準備を始めた。


*  *  *


 未だに落ち込むは、本日の仕事を終え部屋のランプに火を灯す。癖のようにポケットに手を入れて探るも、目当ての指輪など出てはこない。
 はあと一つ、大きなため息を零したと同時に、コンコンと誰かが部屋を訪ねドアをノックする。三島だったら今日は帰ってもらおう……そんな事を考えながらドアを開けると、そこに立っていたのは三島ではなく待ち望んでいた姿。
「岡田さん……!」
「ちょっと中いいか?」
 二つ返事で中へ招き入れると、お茶を入れようとするを止め、ごそごそとズボンのポケットを探る。出てきた皺くちゃになったハンカチを開いて見せれば、中からはずっと探していた翡翠の指輪。はわあっと顔を綻ばせ岡田に抱きついた。の笑顔をなんだか久々に見るような気がして、岡田も思わず喜ぶを強く抱きしめる。決してどさくさに紛れてではない。
「そうだ、こうするんだろ?」
 一旦体を離すと、岡田は優しく指輪を摘み、の左手を取ると、どこにしようかと悩みながらも、合いそうな指にはめる。ずっとその時が来るのを待っていたかのように、ぴったりとはまる指輪の緑がの白い指に良く映える。
 しかし先程まで笑顔を見せていたは、顔を伏せたまま一言も発しない。岡田は何かまずいことでもしてしまったかと慌てるが、違う違うと首を振るにさらに困惑する。
「違うの、これ、だって……意味知ってるの?」
 指輪がはめられたのは左手の薬指。頬を染めながら恥ずかしそうにが薬指の指輪の意味を伝えれば、理解した岡田もそれ以上に顔を赤くして、照れているのを誤魔化すかのように、再びを強く抱きしめる。
「ありがとう、岡田さん。ちょっとびっくりして」
 顔をまっすぐ見れなくてたくましい胸に顔を埋めるも、照れ隠しなのか少し汗臭いとの口から文句が飛び出した。


「おはようございます」
 数日後、いつものように朝から元気な声が厨房に響き渡る。彼女の首には直ったばかりのチェーンと、優しく輝くカワセミの指輪がに合わせて揺れていた。



18/03/18 ゴールデンカムイ夢アンソロジー寄稿

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