GOBI

Rouge For You

 机の中央に置かれた鏡、その周りを見たこともない細々とした道具が取り囲む。鏡を前にして弾むの後ろ姿を、岡田はベッドに腰掛け暇そうに眺めていた。
 の部屋に一番訪れている岡田だが、化粧をしている姿を見るのは初めてだった。


ちゃんの化粧って不思議だよね」
 ゆったりと流れる雲を眺めながら、兵舎裏でいつもの3人が仲良く並び、サボりのタバコを嗜んでいた時だった。三島の何気ない一言に岡田は心底驚いた。化粧……していたのかと。
 誰よりも間近でその顔を見ていた筈なのに、岡田は全く気が付いていなかった。化粧といえば白粉というイメージがあったせいか、三島曰く化粧をしているというの顔は、いつもより肌が綺麗で艶のある色っぽい唇に触れてみたいという、下心を含んだ感情が湧き立つ程度にしか感じていなかった。
「この辺の女性と違って自然だよね」
「そう、だな……ああ、自然、そうそう」
「気づいてなかったんでしょ」
 どういう訳か女性の事、とりわけに関しては鋭い三島。本当にそういう関係なのかとニヤニヤしながら顔を覗き込むように見られると、岡田はいとも簡単に嘘を見抜かれた事で、居心地悪そうに口を尖らせ視線をそらす。
「女性の顔をジロジロ見るなんて駄目だろうけど、流石に気が付かないのは……」
 呆れる三島にムッとして、軽く肩を小突き「俺が一番あいつの事を知っている」と、岡田は吸っていたタバコを靴底で踏みつけ、逃げるようにその場から立ち去った。
「あれってやっぱり気が付いてなかったんだな」
 流れる雲へ吹きかけるように、タバコの煙を吐き出しながら野間は小さく呟いた。
「……化粧、してたのか?」
「野間も!?」


「岡田さんから誘ってくれるなんて初めてだからびっくりしましたよ」
 背を向けていても分かるの嬉しそうな声色に、複雑そうに頬を数回掻きながら「そうだったか?」と誤魔化してみる。
 一番側で見ていたのに、今まで気が付かなかったのがとにかく悔しかった。用事があるからと適当に嘘をつき、急を装いを外出に誘ってみれば、少し考えた素振りを見せながらも「いいよ」と承諾が降りたのがつい先程。
 普段仕事の時には化粧をしていないというのは、本人から以前聞いていた。ならば急に誘えばその姿を間近で見ることが出来るのではと、岡田は日曜日の外出許可を取り、わざと昼間近にに声をかけた。
 顔に水のようなものと肌色の“なにか”を顔に塗りたくったと思ったら、次は見たこともない小さな箱を開け、中に入っていた布とは違う物で顔を撫でる。その姿を真剣に見ていると鏡越しに視線がぶつかり、「あまり見ないで」と恥ずかしそうに鏡ごと体をずらされてしまった。細い筆やハサミに似た道具を慣れた手付きで器用に使う。そんな今まで見たことの無かったの姿を、岡田は暇そうに見ていない振りをしながらも、こっそり食い入るように見ていた。
「あ、それは知ってるぞ」
「これ?」
 隣の椅子に腰掛け、が取り出した一本の赤い口紅を手に取ると、口に付ける素振りを見せる。回すと出るよと教えられ、興味深そうに口紅を出したりしまったりを繰り返す。そんな岡田にくすくすと笑いながら、は化粧箱の中から細かい桜が描かれた小さなお猪口を取り出した。
「でも今日はその色は使わないんです」
 お猪口を裏返すと、中から赤い紅が現れる。しかし岡田には今手に持っているものと同じ色にしか見えず、不思議そうに首をかしげた。
「ほら、色が少し違う……」
「同じに見えるけど」
「もう!」
 呆れながらは再び視線を鏡に落とし、薄く開きぷくりと膨らむ柔らかそうな唇へ、細い筆で丁寧に紅を点す。その姿に見惚れ、岡田の唇もつられるように動く。
「違うでしょう?」
「分からないけど……多分違う」
「また適当なこと言うんだから」
 柔らかく笑って見せるに、へらっと笑って誤魔化す。
「これは鶴見さんがいつも頑張っているご褒美にって買ってくれたの。色も素敵だし、とっておきの日に使おうって決めていたの」
 そうか、と一度聞き流すが、鶴見という人物名が出たことで、何かもやもやとした感情が湧く。嬉しそうに話を続けるの言葉も届かないくらい、ふつふつと嫉妬に襲われる。
 気がつけばが手にしていた紅猪口を取り上げ、点したばかりの口紅を親指で強引に拭い取る。痛いと嫌がるをよそに、今度はまだ残る口紅を舌で拭うように乱暴に唇を合せる。ガタンとの体が机にぶつかり、何かが床に落ちるのもお構いなしに、息継ぎも忘れる程何度も何度も。せめてもの抵抗にと胸を叩かれればその腕を取る。口紅が完全に取れる頃にはも抵抗するのをやめ、代わりに先程まで嬉しそうに笑っていた顔は、涙でぐちゃぐちゃに変わっていた。
「岡田さんから誘ってもらえて嬉しくて、なのにどうしてそういう事するの……」
「ごめん……鶴見中尉から貰った紅を点して喜んでるのを見たら……無性に腹が立って」
 何度もごめんと謝るが、ひどいと一言返ってきたきり、は口を真一文に結んでしまった。ただ先程の行為が嫉妬のせいだと分かったのか、視線をそらし恥ずかしそうに唇を何度かなぞる。その様子を見逃さなかった岡田は、駄目元で詫びの提案を出した。
「俺が代わりを買うから、その口紅はもう使わないでくれ」
 その言葉に微かにの体が反応する。ゆっくりと視線を上げ、じとりと岡田を見つめ、一円と一言。
「多分これは一円くらい」
「一円」
「高いのだと七円はするから……」
「なな、えん」
 本当に?というような顔で見つめられ、後に引けなくなった岡田は、「貯める」と返すので精一杯。その言葉を聞き再び明るくなるの表情を見てとある事を尋ねた。
は知ってるのか? その……口紅を送る意味を」
「……? なにかあるの?」
 知らないと返すに対し、岡田は思わずニヤリと笑みを浮かべ、こう続けた。


「お前に口づけたい」


 岡田が嫉妬していた意味を理解したのか、顔を真赤にして「そういうつもりでくれた訳ではないと思う」と慌てる。鶴見中尉の事だ、こうなるだろうと知っていてわざと口紅をに贈ったのだ。
 親指に付いた口紅を何度か軍袴で拭い、今度は優しくの唇をなぞる。
「もうちょっと安いのでもいいか?」
 せっかくの雰囲気が台無しだ。それでもは嬉しそうに、岡田の首に腕を回した。



19/02/07

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