GOBI

帰る場所

「聞きたいことがある」
 暖かな日差しが差し込む中、襲い来る眠気に耐えられずウトウトと船を漕ぎ始めた頃。朝から木簡を見つめたまま、ピクリとも動かなかった隆国が久々に発したのは尋ねる言葉だった。静かな部屋に響く隆国の声に驚いたは、ガクンと頭を揺らし、閉じかけた瞼を思いっきりこじ開け顔を上げる。いつもより険しい顔でこちらをじっと見つめる隆国と目が合った。
「……あの、わたし、答えられますか」
「ああ」
「難しい……ですか?」
 難しいかと問い「次第だ」との答えが返って来ると、も隆国と同じような険しい顔になる。
「難しいのはちょっと、困ります」
「なに、そう肩に力を入れずともよい。以前から気にはなっていたのだがなかなか聞けなくてな」
 隆国はそう言って綺麗に整えられたあご髭を撫でながら再び考え事をする。
「最近は会話も問題なくこなせる。全て、とはいかないが、俺の話も今なら理解できるだろう?」
 確かに以前よりは言っていることが理解できる。受け答えもできるようにもなった。
 それでも自信無さげに「はい」と答えると、隆国は軽く頷き少し待っていろと言って部屋を出た。


 一人部屋に取り残されたは、何を聞かれるのだろうかとひどく怯えた。
『何か怒らせるようなことしたかな……麟坊様に言われて王騎様の新しい侍女の方に声をかけた時のことバレたかな……それか、あれも鱗坊様に』
 一人になったとたん今まで行った悪さがぐるぐると頭の中を駆け巡る。あれかこれか。今になって気が付いたが、思い出す悪だくみは全て麟坊絡みだ。録嗚未や隆国が「麟坊とつるむのは控えろ」と言っていた意味が今少しだけ分かった気がした。
 悶々と考えていると遠くからコツコツと規則正しい足音が近づいて来るのが分かった。思っていたよりも隆国は早く戻って来てしまった。逃げようにも出口は一か所、ここには身を隠せる場所もない。わたわたと部屋の中をうろついていると、扉の外から「開けてくれ」という隆国の呼ぶ声が聞こえ、は天を仰ぎながら腹をくくり言われた通りに扉を開ける。
「あの、私鱗坊さま」
「さすがに全ては重たいな」
 大きな布をいくつか抱えるようにして戻った隆国。に机を片付けるように指示すると、布の束から適当な一枚を手にしてバサリと床に広げてみせた。線と所々に小さく文字が書いてあるのを見て、それが何かすぐに気づいたは思わず声を上げる。
「すごい! ちず……地図です!」
「これが地図だとよく分かったな」
 さらに布を広げて線と線を繋ぎ合わせていく。大きな川が二本、そこから枝分かれするように沢山の川が流れる。国境を区切る点線、重要な街や城、それを繋ぐ道。全てを広げ終えるとが知る物とは多少違ってはいたが、今現在の中華全土を表す大きな地図が隆国の部屋に現れた。
「上が黄河、下が長江」
「ああ」
「それじゃあ……ここ、ですか?」
 が秦と書かれた地を指差すと、隆国はその北に書かれている咸陽を指差してから、さらにするすると指を動かした。
「ここが秦国の首都咸陽。そこから少し離れた所に殿の城がある。そうだな……馬の脚で約一日程か」
 確かに自分が最初に行った場所からここまで、馬車で一日ほど移動した記憶がある。
 眺めていると隆国は地図を踏まないようぐるりと反対側へと回り、地図の切れた先、海の上に立った。
「改めて俺の問だ。について知りたい」
 真剣な顔で言われ思わずの顔は熱くなる。

 他愛のない話だ。村のこと、家族のこと、この国とはかけ離れた原始的な生活のこと。自分がその村でどんなことをしていたのか。大して面白くもない話だと思いながら話すと、隆国はの話を真剣に聞き頷き時折驚く。東の島国での今の暮らしはこの中華でははるか昔のこと。隆国にはとても新鮮なものに聞こえるのだろう。
 生活の話を終えると、次は秦までの旅の話。正直旅などという楽しいものではない。それでもこの話は隆国にとっては大変有意義なものらしい。
 あまり思い出したくはなかったが、何度か船に乗せられたのはよく覚えている。
「なら燕を通って斉に降りたのか」
「そこからはずっと馬車でした。たくさん、壁……門を……」
「門……関所か」
「せきしょ」
 は知っている単語をいくつか出してそれをヒントに隆国が何か当てる。それが当たっているのかなどには分からないが、二人は顔を見合わせ小さく笑った。
「あの、歩いてもいいですか?」
 地図の上を歩くなどと怒られるかと思いきや、隆国は一度だけ頷く。は靴を脱ぎ遠く海の上に降り立つとゆっくりと地図の上を踏みしめた。
 自分の通った道を確認するように地図の上を歩く。海を渡り、着いた先でまた船に乗り、馬車に載せられ悪路の中揺られ続けた。
 たどり着いた秦国咸陽。ふと顔を上げると目の前に隆国が立っている。
「こんな遠くまでよく頑張ったな」
 振り返ると海はすぐそこなのに、絶対にたどり着けない場所にある。
「帰りたいか?」
 以前の自分なら帰りたいと即答しただろう。しかしあまりにも、あまりにもここは居心地がよかった。確かに毎日どこかで争いが起きて沢山の人が死ぬ。自分だって本当は死ぬ運命だった。それでも沢山の人が手を差し伸べてくれた。言葉もようやく理解出来るようになってきたばかり。よそ者である自分に対してみんな優しいし良くしてくれる。録嗚未は厳しいが。
「すまん。少し意地悪な質問――」
「私はわるい人です。父も母も弟も妹もいるのに、ここにいたいと思ってしまいます」
「悪いなどと、何も自分を卑下することではない。それは当たり前の感情だ。そう思える環境を作れているのなら俺達も多少なりと役に立っているのだろうな」
「でも、さびしくて、悲しくて、会いたくて……でも私……わたし」
 涙を湛えた瞳に地図には無いはずの故郷の姿が浮かぶ。ふらりと引き寄せられるように東へ戻りかけたその時、力強く腕を掴まれ引き戻された。
「隆国、さま?」
「寂しくなっても今は殿や俺達がいる。国を思い出して泣きたくなったら胸くらい貸してやる」
 録嗚未や麟坊達とは違う、優しい茶と墨の香りがふわりとを包む。自分が隆国の腕の中にいるのだと気づくと、体温が急激に上昇していくのが分かった。
「最初はどうなるかと思ったが、今はこの生活も悪くないと思っているのだ。が利口だからな」
 くつくつと笑っているのが体を通して伝わる。
「私も、まだまだ皆さまと一緒にいたいです」
 今は偽りでも、いつか本当にいるべき場所になるように。故郷を思って湛えた涙がの頬を一筋だけ流れて落ちた。





「そういえば鱗坊がどうかしたのか」
 聞こえていたのか。「あの」「ええと」と濁してみるが、勘のいい隆国にはすぐにバレる。
「一度鱗坊に釘を刺さねばならんな」
 お前にもだ、と隆国はを抱きしめる腕に力を込めた。

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