GOBI

移り変わり

 あちらこちらの家から白い靄が空に立ち昇るのを見て、真似してはあ、と一息吐き出すと、同じように白い靄が現れ消えていった。
 パキッ、と足元で何かが割れる音がした。視線を上から下に向けると、小さな水溜りに薄い氷の膜が張っていたのが粉々に割れている。
 今日の寒さを理解したは屋敷を出る際、侍女に渡された少し大きな冬用の羽織をしっかりと着直し裾をたくし上げると、本日のお役目に必要な包を大事に抱え、パキッパキッと何度か水溜りを踏みながら大通りを城の方角へと進む。

 通い慣れた道程も、季節が変われば初めての景色が広がる。派手な色合いのものを好んで着ていた飯屋の女性は、厚手の衣を着ていつもよりか少し控え目になり、毎日上半身裸で仕事をしていたおじさんは、寒い寒いと何枚も着込み背中を丸くして火にあたっている。厩の馬たちからはモクモクと湯気が上がっていた。

 今まで這うように登っていた城へと続く階段をトントンと軽やかに上がり、厳つい顔をした門兵にむかい流暢に「おはようございます」と挨拶をする。しかしギロリと睨まれるだけで今まで一度も挨拶が返ってきたことは無い。
 気にしていたのは最初だけで、最近ではなんとかして門番からの返事を聞こうと躍起になって挨拶をしている。
 もまた季節が変わる度、同じように強く変わっていった。それでもこの土地に来てまだ数カ月、隆国との勉強は続いている。分かったことよりも、分からないことの方がまだまだ多い。

 目を瞑っていても分かるかのような迷いのない軽やかな足取りで、朝早くから忙しなく歩き回っている文官の間を縫うように、小柄なは目的地を目指す。
「今日も勉学とは、私も殿を見習わなくては」
「そうだな。さすればもっと詩もうまくなろう」
 すれ違い様、文官達の悪意を含んだ言葉と品のない笑い声が聞こえる。以前は理解出来る言葉だけを聞き取り落ち込むこともあったが、今では「あれは自分に対する妬み僻みなのだろう、可愛そうな人達だ」と軽く流せるようになった。
 しかし今日の目的は違うのだ。

 目的地だと思われた隆国の執務室を素通りすると、はそのずっと先、録嗚未の部屋の前で立ち止まった。
 二度大きな扉をを叩くと録嗚未が鬱陶しそうな顔で現れた。の顔を見て一瞬驚くが、抱えていた包を見て納得したのか、辺りを数回見渡しの腕を掴み、強引に中へと引き入れる。
 一部始終を見ていた文官達はまさかの光景に、互いに顔を見合わせ首をひねった。


「痛いです!」
「いや、すまん。それでその包はもしや」
「お忘れもの、です」
 大事そうに抱えていた包を解くと、中から現れた木簡を録嗚未に手渡した。
 それは今日の軍議で使うものだったらしく、録嗚未曰く一度屋敷へ使いを頼もうかと思ったがそれでは感の鋭い隆国や鱗坊にバレてしまうと困っていたらしい。だか運良く気がついた侍女が毎日のように城へ行くへ、ついでにと頼んだのだ。
「助かった……!!! 隆国にバレたらどれだけ小言を聞かされるところだったか」
 グチグチと長い説教をする隆国を想像して、は思わず吹き出してしまう。何度か経験したが確かに隆国の説教、あれは中々に辛いものがある。
「隆国さま、とても長いです。いつも疲れてしまいます」
「お前も分かるか」
「そうだな、俺もグチグチと小言など言いたくはないのだがな」
「そう! あいつの説教はグチグチネチネチと長ったらし……」  後ろから聞こえてきた声に背筋が凍る。
 録嗚未と、二人揃ってゆっくりと振り返ると、扉の前に仁王立ちの隆国の姿。よく見ると隆国の後ろには、説教される二人をどこか楽しげに見ている鱗坊の姿。警戒心を持たず録嗚未の部屋へとまっすぐ来てしまった事を、この時ばかりははとても後悔した。
 しかしこの日、隆国の怒りの矛先は主に録嗚未へと向けられたため、の正座は三十分程で解かれた。
「ごようがなければ、帰ります」
 痺れる足を擦りながらまだ怒り続ける隆国の背中に声をかけると、隆国は右手を上げて何度かひらひらと振って見せた。
「ごゆっくり……失礼いたします」
 一礼した際こっそりと録嗚未の顔を見ると、いつにも増して眉間のしわが深くなっている。これ以上巻き込まれないように、は逃げるように部屋を後にした。


 長い使いを終え、羽織の裾を引きずりながらよたよたと帰路に着く。
 行きと同じ門番に一礼をして階段に向かうと、「おい」とを呼び止める声が。
 一瞬自分に対して発せられたのが理解できず、立ち止まり辺りをキョロキョロと見渡していると、「おい、娘」と再び声をかけられ、やっとそれが自分に対してのものなのだと理解した。
「裾を踏んでいる、階段から落ちるぞ」
「あっ、あり、あ……と」
 毎日声をかけても返ってこなかったが、今日初めて門番と会話ができた。
「おいっ! 娘!!!」
 嬉しさのあまり高揚する気持ちを抑えきれないは、飛び跳ね一段目から足を踏み外し、そのまま門番の視界から消えた。


* * *


 城の一室には城主である王騎を始め、軍の錚々たる面々が揃っていた。
「定例軍議を始める」
 隆国が話すのを合図に、まず初めにと録嗚未が立ち上がり木管を広げた。
「あー、先の戦で我が第一軍の戦果についてだが」
 体を動かすことに関しては誰にも負けない録嗚未だが、狭い室内に籠もり気に入らない文官と顔を合わせる軍議ほど苦手なものはないという表情で、どこか面倒くさそうに木管に目線を落とし読み上げ初めた。
「李子、杏子、茘枝、苹果………………なんだこれは!?」
 拙い漢字で書かれた木簡。よくよく見ると以前が勉強に使ったものだった。
「お前と大して変わらない字だな」
 横から覗き込み喉を鳴らして笑う鱗坊を、鬼のような形相の録嗚未が睨みつける。
「コココ、それで録嗚未、続きは?」
「続き、続きは……」
「桃子、葡萄ですな」
「鱗! 坊!」
 ケタケタと笑いながら木管の続きを鱗坊が読み上げると、録嗚未の怒鳴り声が部屋に響き渡る。しかし録嗚未の怒鳴り声を打ち消す、それ以上に大きな隆国の声が城中に響き渡った。
 階段から滑り落ち痛いと泣くが、この後カンカンに怒った録嗚未により再び泣くことを今はまだ知らない。

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